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<ノベル>
その化物にとって、人の血は好ましいものだった。
肉と骨も、口に入れるときの感触を思えば、悪くはない。――あえて人である必要もないのだが、そこに娯楽性を見出すのが、彼の性質だった。
――良い世になったものだ。
食事の最中に、ふと思う。生の感覚……というほど、大層なものでもない。映画の中で生きていた彼にとって、夢と現の区別などない。しかし、新天地での狩りには、やはりそれなりの刺激があるものだ。こういうのも、一味違ってよいものだと、そう思う。
彼にとっては、銀幕の中で与えられた役目を、この世においても実行しているだけに過ぎぬ。誰はばかることなく、無法を働く。そこに葛藤はなく、ただ楽しみのみを見出していた。
この餌も、先ほどまでの狂態を思えば、再び血が滾る。大切なものに殺されるというのは、いかほどの痛みか。いや、それ以前に裏切られたという思いを、どう想像したものか。
――わからないからこそ、面白い。興味が出る。次は、どうしてやろうか?
人の恐怖を喜び、戸惑いに哂い、怒りを好む。復讐心さえ、彼にとっては彩を添える調味料であった。それは絶対の強者の余裕。狩るものと狩られるものの、差であったろう。普通に騙して奇襲する方法は、もう飽きた。次は堂々と仕掛けてみようかとも思う。
しかし、彼は知らない。この街には、己が想像さえ出来ぬ強者がいるということを。そして、その者が一見して理解できるような、わかりやすい相手ではないということも。彼は、考えた事さえなかった。
ある休日の午後。銀幕広場を散策する、一人の少女がいた。
――アーベル。いとしのアーベル。いまは、あなたがなつかしいわ。
憂いを秘めた表情で、周囲を見回した。……もちろん、彼女が望む人物は、その場に居ない。少女の名は、マリエ・ブレンステッド。この銀幕市に現れた、ムービースターである。
銀幕広場を散歩する、その姿。身長は、一メートルばかり。手にした傘は一品物の、傍目にも高価な代物とわかる。日傘と言う目的よりも、これもファッションと言う意味合いが強かろう。また、彼女の服装も凝っている。一介の幼子には、不釣合いともいえようが――傘から覗くその容姿を見れば、決して服に着せられていない……ということがわかる。
赤い傘に、赤いドレス。そのどれもが、彼女を引き立たせる道具であった。まさに、比喩ではなく、高価なお人形が、そこで動いているのだ。
――あのこがいれば、きっとたのしいとおもうのに。……はやく、あえるといいな。あえるかな?
気付けば、かつての友人の姿を、群衆の中から探そうとしていた。……彼女とて、銀幕市の事情を知らぬわけではない。
そう簡単に見つかるものではないと、理性では理解していた。だが、それでも一縷の望みは捨てきれぬ。可能性がまったくない、というわけでもないのだから、余計に歯止めが利きにくい。
そう、そもそもこうして、自分が銀幕から抜け出してこられたのも、一つの奇跡といってよいのではないか。だとしたら、もう一度同じ奇跡を望んだとして、何の不都合があろう。
叶うならば、最初の出会いのように、劇的にと。そのような願いも持ちながら、やはり再会できるなら、どんな形でも構わないと。矛盾した想いの中、彼女は散策を続ける。
――お爺さまが、いるんですもの。アーベルがいないのでは、かたておち、というものではなくて?
理解さえ及ばぬ、この街に働く力に対して、その落ち度を責める。もっとも、苦情を伝えた所で、どうにかなる類の代物でもない。また、どうにかなったとしても、それが彼女の求める形で発現するかどうか、保障さえ出来ないというのに。
そこまで思考を深めることなく、マリエはただ子供のように欲することしか知らぬ。……ならば、これは必然であったろうか。
「あ」
歩みを止め、凝視する。少年の姿が、彼女の視界を横切る。その瞬間を、マリエは見逃さなかった。
「……アーベル?」
ほんの一瞬だったが、確かにそれは、見知った人のように思われたのだ。
マリエは己の眼を疑うよりも、まずその知覚した情報を確かめるべく、走り出した。これが見間違え出なければいいと願いながら、彼女は駆ける。淑女としての作法よりも、優先すべきことがある。ひるがえるスカートをそのままに、マリエは知覚したはずの相手を探した。
「アーベル、どこにいるの――!」
そして、見つける。背格好に、その後姿。それはまさに、彼女の記憶そのままで。
しかし、肝心の相手はマリエに気付いた様子も見せず、雑踏から路地の方へと入っていく。
「アーベル!」
もう、逃さない。周囲の目を避けるように消えた影を、彼女は追った。誘導されているなどと、考えもしなかった。
どうして、わかってくれないのか。なぜ、応えてくれないのか。ただただ、募る想いに振り回されるのみ。マリエは、あまりに幼かった。
少年は、自らを追う少女のことを、すでに把握していた。
何故追うのか、その理由も理解していて、なお近寄ろうとしない。むしろ、距離を保つかのように、どこかへと誘う様に、道筋を颯爽と歩いている。歩く速度は決して速くないはずなのに、マリエは彼に追いつけない。……そういう、ものなのだ。
人知では完全に理解しえぬ、深遠なる魔の気配が、少年にはあった。それこそがまさに、彼女の想い人との決定的な差であろう。
――獲物が、かかった。
そうして、彼は唇を持ち上げるように、哂う。物語の中の悪として芽生えた、狩る者の意識。それが、新たな生贄を求めて喘いでいる。これから狩場へと導いていく、この過程が、すでに舌なめずりをするほどの恍惚に満ちていた。まさに、真性の狩人といってよい。ただ本職と違うのは、獲物に対する敬意もなければ、糧を受けることへの敬虔さもないことだ。
――昨日の相手は、あまりに脆かった。今度は、丁重に扱ってあげないと、ね。
少年は、さらに歩みを進める。これから喰らう少女の味を、夢想しながら。表皮の舌触り、肉の食感、血が喉をつたう、あの感覚。彼の興味は、そこに集中していくのであった。
追いかけ初めて、もうどれほど時がたったろうか。いつのまにか、日が暮れ始めている。そこまで夢中になっていたことを、彼女はようやく自覚した。
「マリエに、あいたくないの……?」
これ以上、時間を潰してはいられない。彼女には、帰りを待ってくれている家族がいるのだ。
今日のところは、それらしい少年を見かけたのだという、その一事を持って満足するべきだった。――本心は、どうあれ。
――お爺さまには、なんていったらいいのかしら。
そして、どうやって協力してもらおうかと、思った矢先に……。
「あれ?」
周囲の背景が、変わる。夕暮れ時の街から、一気に黒く塗りつぶされた暗色の街へ。
思わず空を見上げると、やはりそこには太陽があった。……一切の光を放たぬものを、太陽と呼んでよいものなら、だが。
「ようこそ、僕の狩場へ」
物陰から現れるのは、追っていたはずの少年。しかし、その表情は暗い情動に満ちており――。
「……誰?」
「つれないね。僕を追って、ここまで来たんじゃないのかい?」
「あなたなんか、しらないわ。アーベルは、そんなかお、しないもの」
マリエが否定するほどに、今の彼は、記憶のものからはかけ離れていた。ここに来て、いまさらのように彼女は後悔する。
――よくみれば、わかったのに。いじわる。
まがい物を、真実と見間違えた事実が、たとえようもなく不愉快だった。そして、わざわざ道化を演じてまで、この場へと呼び寄せられたことも、同様に憎らしくてたまらない。
「きたない、せかい。……これが、あなたの?」
「汚いとはご挨拶だね。まあ、子供にレトリックを解せ、という方が間違っているかな」
マリエは、すでに危険を認識している。眼前の少年が、明確な敵であると理解している。
――そんなかおで、マリエをみないで。
だが、どれほどの悪意を表されようと、マリエは彼を傷つけたくなかった。今も心に残っている、少年の姿。それを完全に写し取った造形を、どうして破壊できようか。偽者だとわかってなお、マリエは躊躇う。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、アーベルなの?」
口について出たのは、疑問であった。なぜ、彼であらねばならないのか。彼女が腑に落ちぬのは、それだけだった。
「だって、その方が獲物を釣るのに、都合がいいから。この姿も、口調も、全て偽り。そうして引っかかった登場人物を間引くのが、僕の劇中での役割でね」
「もう、かえってもいいかしら。お爺さまをしんぱいさせたくないの」
「いいよ。……出来る、ものなら」
とっさにマリエが身を翻す。何事かと確認してみれば、そこにはナイフが突き立っていた。
「アーベルは、こんなこと、しないわ」
「だろうね。投げナイフが得意だった、っていう情報は、流石にない。というか、そこまで読み取れない。……逃げる標的に対しては、結構有効なんだけど」
彼は、あくまでも狡猾な狩人であった。襲い掛かる時でさえも、擬態した人物を崩さない。
「でも、不評なようだから、別のやり方を探そうか」
もし、ここで解りやすく、映画の怪物のように襲ってこられたなら、マリエも割り切れただろう。
だが、まるでこれが遊びのように軽く語り、笑って送り出された以上、彼女としてもやりにくい。明確に敵対していながら、親しい人の面影がそこにちらつく。不快であっても、こちらから仕掛けようとは思えなかった。
「少しの間、待ってあげる。鬼ごっこ、みたいなものだね。捕まえたら、僕の勝ちだ。……さあ、逃げられるものなら、逃げてごらんよ」
アーベルは、こんな意地の悪い微笑など、浮かべはしない。よく見れば、相違はいくらでも見つけられるだろう。それでも、これ以上彼を姿を見ていたくはなかった。思い出が汚されるようで、嫌だった。
「――さあ、どこまでも逃げるといい。早くしないと、捕まっちゃうよ?」
促されては、かえって意気もくじける。マリエはこの鬼ごっこを承諾したかのように、その場を去る。
立ち向かうより、逃亡を選んだ彼女は、その時点で狩人の罠に掛っている。それこそが化け物の望みだと知らずに、暗い街の中へと駆けていった。
黒に染まったビル街を走り抜けながら、マリエは思う。どうして、誰ともすれ違わないのか、と。
普通ならば、こうも都合よく、人目を避けていられるはずがない。さらに、地平の太陽がありえぬ形で存在している。沈みかけた太陽は、闇に染まっていながら、木漏れ日のように光を差し込む。だが、それは酷く弱弱しく、視界を確保することさえ難しいほど。
ここまで情報が揃えば、これが『彼』のロケーションエリアであると、すぐに理解できる。しかし、それを知った所で、何が変わろうか。
追われる立場が逆転することはないし、敵のホームにいる以上、それだけで不利である。出来るならば、脱出を。それが無理でも、なんとか己に優位な状況を作る必要があった。
――どうしたら、いいの?
されど、少女は具体的に何をすべきか、まるでわからなかった。
彼女の知能が劣悪なのではない。その精神に動揺がなければ、相応の手段を思いついたであろう。しかし、現実は非常である。
「アーベル。……こんなに、くるしいのに。なぜ、でてきてくれないの?」
未練。
それが、マリエから正常な判断を奪っていた。
危機なのは、わかる。ここがロケーションエリアと言うことも、気が付いた。……しかし、思考が働くのはそこまで。これ以上は敵を妥当する為の策を出さねばならず、そうなると愛しい人に似た、あの彼を殺す術を探さねばならぬ。
――マリエは、あのこをけさなくては、いけないの?
自問する。それが、果たして可能なのかどうかを。
そして、少しでも検討し始めると、すぐに結論が出た。彼女にとっては当然であり、この場にとっては最悪の結論を。
――だめ。マリエは、アーベルをけしてはならないの。それだけは、しちゃいけないの。
彼女は、少年を返り討ちにすることさえ、ためらった。ただ獲物であることに甘んじてでも、刃を向けたくなかったのだ。
姿を似せているだけだと、理性では解っている。それでもなお刃を向けられないのは、個人的な感傷に過ぎない。
だが、この少女にとって、自分の感情というものは、理屈を超えた影響を持つ。――ただ、そうしたくないという理由だけで、マリエは今も危機の中にいた。
「どうしたの? もっと、ちゃんと逃げてよ」
曲がり角を曲がった先に、少年はいた。まるで、待ち伏せていたかのように。
「ひ――」
「でないと、面白くないよ? さあ、早く。早く早く早く!」
マリエが冷静であれたならば、もはやこの相手に、アーベルの面影を見出すこともなかったろう。少年の皮をかぶった狩人は、すでに本性をあらわにし、獲物をさいなむことに熱を上げている。
再び背を向けて、走り出すマリエ。
しかし、どこをどのように駆けても、彼女は少年から逃れることは出来なかった。逃げる先に、彼がいる。そのような状況を、何度繰り返したろうか。
――もしかして。
これが、ロケーションエリアの効果なのか。
よくよく考えてみれば、いくら逃げても追い詰められ、遭遇するというのは、ホラー映画では常套的な手法である。この黒い街が、その効果の発現であったとしたら――。
――にげられない、の?
その考えに至った時、まるでそれを肯定するかのように、また彼が現れた。
「鬼ごっこは、もうお仕舞いだよ」
今度は、ここから離れようとする事さえ、許されなかった。
彼が指を弾くと、場面が変わり……この場は、袋小路と化す。
「いやなひと。いつだって、こうすることもできたのね。……ほんとうに、いやだわ」
「いきなり狩ってしまうと、面白みがないじゃない。初手で傷つけてしまうと、逃げる気力もなくしてしまう人だって、いたんだよ? だったら、無駄の努力でも、させてあげたくなっちゃうじゃないか」
楽しそうな笑顔で口にするのは、それに似合わぬ残酷な言葉。彼は、血肉を喰らう結果よりも、その過程を楽しく思うらしい。ただ食事をするだけなら、そもそもこのような回りくどい手を使う必要など、ないのだから。
「でも、それももう終わり」
「……え?」
「実はもっと見物してても良かったかな――と思うんだけど。ロケーションエリアには、制限時間があるんだ。ぎりぎりの所で、逃げられでもしたら。……もったいないじゃないか」
そういうと、もはや仮初の姿に拘る必要もなくなったのか。
少年は右腕を肥大化させ、獣のような長い爪をあらわにする。具体的な変化といえばそれだけで、全体の形まで変わった訳ではないが――。
「せいぜい、抵抗でもしてみるんだね」
歯茎までむき出しにする、鮫のような笑み。もう、アーベルと見間違えようなど、なかった。
少年が襲い掛かってくる様を、マリエは無感動に見つめていた。
――こんなの、ちがう。
そして、無造作に放たれた爪の一撃を、かわすことなくその身に受ける。
結果、服もろとも彼女の柔肌まで引き裂かれ、マリエはその場に崩れ落ちた。
「おや?」
血の臭いが薄い……否、感じない。
確かな感触を手に感じながら、これはどうしたことかと、倒れた彼女を見やる。
しかし、うつ伏せに倒れた相手を見下ろしても、解ることは多くない。ひっくり返して傷跡を見物しようとした、その時。
「なんだ? ……これは」
己のロケーションエリアが、上書きされて行くような、奇妙な感覚を覚えた。まだ時間には多少の余裕がある。それまでは、彼は無敵の狩人でいられるはずだったのに。
「いつのまに、空が……?」
一見して、変化はないように見える。だが、彼の感性が、明確な違いを捉えていた。
彼の領域では、日の光を覆い隠し、暗い無人の街を表現する。されど、今は時間が過ぎ、徐々に空がきらめいてくる時間帯である。いくら空間を暗い幕で覆えるとはいえ、彼の力は月と星には及ばず、薄ぼけた星空が現れているはずだった。現実として、この直前まではそうであった。
しかし、今はなぜか月も星も出ていない。そう、違和感を感じた瞬間に、まるで消えてしまったかのように。
「ん? ――ッ!」
そして気付けば、マリエが傍にたたずんでいた。驚く間もなく、反射で振り返ったが、少年はそこで動きを封じられる。
視線を少女の胸に落としてみれば、確かにそこには傷跡があった。――ここで、ようやく彼は自分が相手にしていたものの、異常性を知る。
「にん、ぎょう……?」
敗れた表皮の下には、確かに体液と呼ぶべきものがあり、体に必要な器官もあるのだろう。傷口は深く、そこまでは見て取れる。ただ異常なのは、それが『血液』と『臓器』という、人体に不可欠のものとは、まったく別の存在であったことだ。
この異質の肉体を、少年は人形と評した。本当に、それは的確な表現だった。
「ようやく気付かれましたか。しかし、いささか遅かったようで」
口調の変化は、少年にさらなる驚愕を与える。眼光も鋭く、口元は薄ら笑いを浮かべ、老獪さが垣間見える。
「頂いた傷の分も含めて、お返しをして差し上げましょう」
「がッ!」
手足への締め付けが、強くなる。ここで少年は、己の自由を奪ったものが、何であるかを把握した。
それは糸だった。この闇の中でも、冷静を保ってさえいれば、糸がマリエの影から伸びていることに気付いたかもしれぬ。――が、それを今の彼に求めるのは酷であったろう。
まるで磔にされたかのように、両手両足を縫いとめられている。そうと知った時、総毛立つような悪寒がその身を襲い、もがくように全身を暴れさせた。
「ひ――」
「おや、粘りますな」
どうにか糸を振り払い、ここで少年は逃げ出した。
追う側であったはずの狩人は、この瞬間から、追われる側へとその身を堕したのである。
「ハッ、ハ――」
その少年は、現状を受け入れることさえ、完全には出来なかった。どこで間違えたのか、それさえも理解したくはなかったから。
――こんな感覚は、知らない。
恐怖を感じることさえ、初めてのことだった。それを知らないで生きてこれたことが、どれほど幸福であったことか。彼はそれをこれから知ることになる。
「逃げられるものなら、お逃げなさい。今度は貴方が、狩られる番です」
すぐ近くで聞こえた声に、少年はすくみ、全力で離脱しようと試みた。だが、不可視の糸が左腕に絡みつく。
耐え難い圧力で拘束するそれを、強引に引っ張ると――。
「あ」
皮が裂け肉に食い込み、骨まで削り取って来るではないか。そして、痛みにもだえる端から、徐々に手繰り寄せていく。その先には、当然、あの人形の娘が……。
「ぎいぃぃッ!」
「ほう?」
流石は腐っても怪物と呼ばれた身。いまだに少年の姿を保っているあたり、不快さを禁じえないが、この行動は評価せねばならない。
「あががが――ぁあ!」
彼女は、糸を緩めようとはしなかった。だから、それを外そうと思えば、括り付けていた部分を引き千切らねばならない。
怪物は、それを迷わずに断行したのである。血の滴る音と共に、肉片と化した左腕がどさりと落ちる。
「……やりますね」
彼は、片腕を丸ごと犠牲にしてでも、この場から離れたかったらしい。そこまで恐れを感じたのは、自分が捕食される側だという自覚を持ったからだろう。
なりふりかまわぬ行動を、素直に賞賛する。その生への執着の強さは、認めてもよかった。
「しかし、これで」
認めはするが、許したわけでは決してない。マリエは容赦せず、己の影から先ほどとは比較にならぬ勢いで、無数の糸を伸ばす。
「詰み(チェックメイト)です」
今度は、手足だけを縛るなどと言う、生ぬるい処置では済まさなかった。
首から、胴体へ及び、そして全身を覆う糸。
「ふ――ッ! ふ――ッ!」
食い込んだ糸が、少しずつ、少しずつ、体に浸透していく。壮絶な痛みと、全身を這い回る、妙に快い熱い感覚。彼はそれを明確に感じつつも、決して意識を失うことを許されなかった。
「ひ、ひが。あぐ、う――」
「見苦しい」
少女の一言で、少年は死を自覚した。体の奥底から、力が吸われていく。今なお知覚し続けている、熱い感覚が何なのか。彼は、視界が赤く染まるその瞬間に、理解した。
一滴残らず吸い尽くされて、己の肉体が虚となる過程の中で、理解した。……己の体には、もう流れるほどの血は、残されていないのだと。
「……」
かさかさに乾いた喉は、もはや発声すら困難で。
断末魔さえ、あげられはしなかった。
プレミアフィルムと化した、怪物の残骸をそのままに、マリエは呟いた。
「ごめんなさい、お爺さま。アーベルもここにいるとおもったの……」
咎めるものではない、暖かい視線が、どこからか注がれている事を、彼女は知る。
もう、先ほどまでの惨劇の余韻さえ残さず、マリエは普段の雰囲気を取り戻した。そして、眠そうに目を擦りつつ、家路につく。
――アーベル。さみしいのは、ほんとうよ? だから、いつでもいいから、かならず。わたしのもとへ、きてほしいの。
空を見上げれば、満天の星空が確認できた。どこかで、アーベルも同じ空を見ていたら、良いのに。
彼女の心は、いまだに寂しさが秘められたまま。ここでマリエの一日は、終わりを告げようとしていた……。
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クリエイターコメント | このたびはリクエストをして頂き、真にありがとうございました。 もし設定や、表現などに問題があれば、お気軽にご相談ください。 では、また機会がありましたら、よろしくお願いします。 |
公開日時 | 2008-06-25(水) 19:50 |
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